苓北町の史跡と歴史


町内史跡を歴史に沿って紹介いたします

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安土桃山時代
以前
志岐城
しきじょう
志岐城
?〜?
鎌倉時代より
安土桃山時代末期(1589)まで約400年間
志岐(苓北町)を治めていた志岐氏の居城
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 城の築城年は不明
志岐氏は出羽守弘家が志岐を称号としたのに初まるとある

 元久2年(1205)に
弘家の孫 兵藤左衛門尉光弘が鎌倉幕府から
志岐六か浦の地頭職に補されている


鎌倉・室町・安土桃山と
約400年間にわたり苓北およびその近隣は
志岐氏が治めていた


 天正17年(1589)
志岐林専は小西行長・加藤清正の連合軍に敗れ退城
 同年 小西行長によって日比屋了荷が志岐城代に取り立てられている

 慶長5年(1600)
関ヶ原の戦いで敗れた小西行長は処刑される
日比谷了荷の動向・志岐城の破城年は不明
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安土桃山時代
末期
佛木坂古戦場
ぶっきざかこせんじょう
佛木坂古戦場
天正17年
(1589)
豊臣秀吉の家臣
小西行長が天草・志岐を攻めた際
行長の援軍加藤清正と本戸の客将木山弾正が一騎討ちを行った場所
加藤清正が勝利し天草・志岐も行長軍に敗れた
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 天正16年(1588)
豊臣秀吉は小西行長に肥後南半の領主を任じた

 天草も行長の支配に組み込まれたが
当時天草を支配していた五人衆
(天草氏・大矢野氏・上津浦氏・栖本氏・志岐氏)は
行長と対等の立場と考えていた

 天正17年(1589)
行長が宇土城を築くにあたって天草五人衆へも他の家臣同様に課役を申し付けたが五人衆は従わなかった

 このことを引き金に行長は天草攻めを行った
まず志岐を攻めたが攻めきれず加藤清正に助勢を依頼
清正の助勢により志岐の加勢として派遣されていた天草連合勢が引き上げ始めた

 そのなか天草軍本戸城の客将 木山弾正は引かず清正軍を攻め佛木坂にて清正と弾正の一騎討ちとなった
 結果は清正が勝利しこれを契機として志岐での合戦は講和に向かった
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江戸時代
初期
富岡城
とみおかじょう
富岡城
慶長13年〜
寛文10年
(1608〜1670)
領主 寺沢志摩守広高により
慶長7年〜13年(1602〜1608)にかけ
佐賀の唐津城とともに築城された
周囲の地形が龍の横たわっている姿に似ているというので臥龍城と呼ばれた
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 慶長6年(1601)
関ヶ原の戦功によって
天草4万2千石を与えられた寺沢越中守広高は
慶長7年〜13年(1602〜1608)にかけ
唐津城を築くとともに姉妹城として富岡城を築城した

 唐津城は優雅な配置から舞鶴城と呼ばれたのに対し
富岡城は周囲の地形が龍の横たわっている姿に似ているというので臥龍城と呼ばれた

 寛永14年(1637)
天草・島原の乱で11月19日・22日の2度に渡る一揆勢約1万人の攻めに籠城にて耐えている
(日付については資料により違いがある)

 寛永15年(1638)
山崎甲斐守家治に天草4万石が与えられ幕命により富岡城に住する
同年より寛永18年(1641)にかけ城の改修が行われている

 寛永18年(1641)
天草は幕府直轄領となり
鈴木三郎九郎重成が天草代官に任ぜられた
ただし鈴木重成は富岡城には入らず城下の本戸郡代屋敷跡を役宅に充てている

 寛文4年(1664)
戸田伊賀守忠治が天草へ転封を命ぜられ富岡へ入城

 寛文10年(1670)
戸田忠治が関東へ転封する時 富岡城の本丸・二の丸を破却して去った
破却の理由は
「城塞の維持修復のために蒙むる郡民の過重な負担を根絶させる賢明の策」と伝わっている

 以後 天草は幕府直轄領となったが城は築かれず三の丸が代官所となる
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アダム荒川殉教地
あだむあらかわじゅんきょうち
アダム荒川殉教地
慶長19年
(1614)
慶長19年(1614)キリシタン禁令の中 追放された神父にかわり志岐教会(神学校)を守っていた
看房アダム荒川は3ヶ月にもわたる迫害のすえ 富岡城裏手の海岸で処刑され遺体は海中に沈められた
天草四郎乗船の地
あまくさしろうじょうせんのち
天草四郎乗船の地
寛永14年(1637)
 寛永14年(1637)天草四郎時貞を将とする一揆勢は富岡城を攻めるも落とせず
島原の口ノ津へ船で引き揚げ原城に籠る
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 寛永14年(1637)キリシタンへの迫害・凶作・上税取立の厳しさから島原と天草で一揆が起こった

 天草四郎時貞を将とする上天草の一揆勢は島子・本戸(現天草市)を破り富岡城を攻める

 一揆勢は数度富岡城を攻めたが籠城した敵を落とすことは出来なかった

 富岡城を落とせず多くの信徒が討たれ玉薬が不足し幕府の動き(肥後細川家への追討指令)を察した一揆勢は島原の口ノ津へ船で引き揚げ原城に籠る
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切支丹供養碑
あまくさきりしたんくようひ
富岡切支丹供養碑
天保4年
(1647)
 天保4年(1647)天草代官 鈴木重成が天草・島原の乱の死亡者慰霊のため建立し供養した
ここにはキリシタン3333頸が埋却されている
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 寛永14年(1637)におこった天草・島原の乱はキリシタン3万7千が島原の原城に立て籠り幕府軍12万4千を相手に3ヶ月にわたり抗戦するもキリシタンの敗戦に終わった

 キリシタン3万7千人は獄門にかけられその後も天草各地でキリシタンの処刑が行われている

 処刑されたキリシタンの首級1万余が集められ長崎・高来・富岡に三分され埋却された

 天保4年(1647)天草代官 鈴木重成が乱後の天草を再興するなか乱の死亡者慰霊のため供養碑を建立し供養した
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鈴木重成公供養碑
すずきしげなりこうくようひ
鈴木重成公供養碑
承應3年
(1654)
 寛永18年(1641)天草代官に任ぜられ天草復興に努力した 鈴木三郎九郎重成(1588〜1653)の事蹟顕彰のため承應3年(1654)家臣により建立された
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 鈴木重成は鈴木忠兵衛重次の三男で天正16年(1588)三河国加茂郡則定郷盛岡村に生まれ 兄重三が仏法に帰依したため父より家を譲られた
 兄重三は後に正三と称した

 寛永8年(1631)大阪において隠田が発覚し隠田者が処刑されることとなった
上方代官であった重成は兄重三と心合わせ奉行に書を送り女囚のみ許された
 重成は三河国足助郷宮の平に菩薩堂を建て阿弥陀仏ならびに二十五菩薩(現 国照寺所蔵)を彫刻して安置し刑死者の成仏を祈った

 寛永14年(1637)の島原の乱に際しては松平伊豆守の輩下となり大砲をもって馳せ参じ 乱後も島原に残り残務整理に当たっている

 寛永18年(1641)天草は幕府直轄領となり重成が天草代官に任ぜられた

 天草代官となった重成は天草復興のため
郡内の行政区画の整備・地方役人の設置・富岡の町割り・浦方運上魚方運上の制定・天草への移民を行っている
 また棄キリシタンのため これまでの強権による転宗をやめ寺社を復興しその法儀を弘めて転宗を進めた
その際 兄正三を天草に招き助力を乞うた

 承應2年(1653)重成は参勤のため江戸に滞在中病死した
 重成の死については老中に減石を乞うたが容れられず自刃して果てたとの記録もある

 重成の死の翌年(1654)重成の事蹟顕彰のため家臣により供養碑が建碑された
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江戸時代
末期
頼山陽詩碑
らいさんようらいゆう
頼山陽来遊
文政元年
(1818)
 文政元年(1818)頼山陽が富岡に来遊「泊天草洋」(あまくさなだにはくす)の漢詩をつくったとされる
 昭和7年(1932)これを記念し詩碑を建設
 昭和11年(1936)公園設置

昭和初期 林芙美子文学碑
はやしふみこらいちょう
林芙美子来町
昭和12年
(1937)
 昭和12年(1937)と昭和25年(1950)「放浪記」の作者 林芙美子は富岡を訪れ宿泊している
この時のことが著書「天草灘」の中に書かれている
 文学碑は宿泊した岡野屋旅館に建てられ林芙美子が宿泊した部屋は今も残されている
※史跡の説明文は「苓北町史」(昭和59年発行)および各史跡の案内板を参照しています

 




苓北町情報局 がりゅうこう