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鈴木重成は鈴木忠兵衛重次の三男で天正16年(1588)三河国加茂郡則定郷盛岡村に生まれ 兄重三が仏法に帰依したため父より家を譲られた
兄重三は後に正三と称した
寛永8年(1631)大阪において隠田が発覚し隠田者が処刑されることとなった
上方代官であった重成は兄重三と心合わせ奉行に書を送り女囚のみ許された
重成は三河国足助郷宮の平に菩薩堂を建て阿弥陀仏ならびに二十五菩薩(現 国照寺所蔵)を彫刻して安置し刑死者の成仏を祈った
寛永14年(1637)の島原の乱に際しては松平伊豆守の輩下となり大砲をもって馳せ参じ 乱後も島原に残り残務整理に当たっている
寛永18年(1641)天草は幕府直轄領となり重成が天草代官に任ぜられた
天草代官となった重成は天草復興のため
郡内の行政区画の整備・地方役人の設置・富岡の町割り・浦方運上魚方運上の制定・天草への移民を行っている
また棄キリシタンのため これまでの強権による転宗をやめ寺社を復興しその法儀を弘めて転宗を進めた
その際 兄正三を天草に招き助力を乞うた
承應2年(1653)重成は参勤のため江戸に滞在中病死した
重成の死については老中に減石を乞うたが容れられず自刃して果てたとの記録もある
重成の死の翌年(1654)重成の事蹟顕彰のため家臣により供養碑が建碑された
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